想像力・想起力
〜とある本からの抜粋〜
「『人間の想像力は単なる絵空事ではない。人は心に描いたことを必ずいつか実現する。そのために神・創造主は人間に想像力を与えたのだ』という言葉をある物理学者が言っている」

あるブログでタクシーの運転手さんが、「携帯もコンピューターもみんな現代の利器は、昔の人がまず心の中で創造したものなんだ。だから将来は空を飛ぶ個人タクシーも生まれますよ。だって私が心の中で創造してますもの」と言っていたという話を読んだ。

心に描く。
自分の人生は、本当に心に描いたことが現実になっていると思う。
いや、心がそうやって僕に現実のように見せてくれているのかもしれない。

とにかくイマジネーションが豊かなのは、人生の豊かさなのだと思った。


| スピリチュアル | 01:47 | - | - | ↑TOP
モーツァルト生誕250周年
YAHOOを開いたら上のほうに「モーツァルト生誕250周年」という広告が出てた。そういえばそのキーワードを忘れていた。
年初めは、いろんなとこで耳にして目にしたのだが、、、。

市民活動で世田谷区内に「世田谷ラジオクラブ」という団体がある。
世田谷のコミュニティラジオ局の1時間枠を使ってこの市民団体が思い思いの小ラジオプログラムを作っている。
そこで私も手伝わせていただき13分強の音楽番組「OTOOTOミュージック」を作らせていただいた。
そのときに私ももれなく「モーツァルト生誕250周年」をプログラムのテーマに使わせていただいたのだ。

もちろん、モーツァルトが生誕からの没するまでの曲を何曲か紹介したのですが、私はクラシック音楽に疎いのと、やはりクラシックは私のノリではないので、代用となる私に近い(もっと砕けた)曲を探した。

代用??として使った曲はジャズ編曲された以下の音楽になった。

Ray Kennedy Trio [Ray Kennedy Trio] 3:ロマンス〜セレナード 第13番 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」:第2楽章(CMSB28007)

オムニバス [CLASSIC ON BOSSA MOZART] 12:ピアノ協奏曲第21番第2楽章(IOCD-20145)

Klazz Brothers [Mozart Meets Cuba] 2:Salzburger Schafferl(SICP1038)


CD3枚にわたっての1曲ずつの紹介になったのですが、私の満足する作品に仕上がった。私のナレーションはどうかと思うが、、、。


CD自体は、すごく聞きやすいので、もしお部屋ですごす時間が多かったら聞いてみてください。モーツァルトの編曲集だからCDアルバム全体に波の深みがあって、例えば家で作業する淡々とした時間にメリハリをつけてくれるんです。だからリピート再生しても飽きないとおもいます。

「モーツァルト生誕250周年」で知りえたジャズ・ミュージシャンの感性だったが、いいものに触れ合えたと思う。こんな自分自身の世界の発見につながるイベントってすごくいいと思う。感謝している。


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久しぶりに夜中の仕事
今日は久しぶりに夜中からの仕事だ。
最近、5時に起きて〜という生活が続いていたため、今日は夜の仕事といえども最近の習慣どおりに早朝から起きてしまった。

夜中でも仕事ができるようになって便利になったと改めておもう。

話は飛んで、原始の時代。
おそらく夜の時間帯は何も出来ない暗黒の時間帯だったのではないだろうか?
暗黒の時代の夜は星を見る、月を見る、夢を見る、自分の心をみる、眠る。それくらいしか人間がやれることはない。しかし、当時は、それを存分に味わえたのかもしれない。

ぐいっと戻って現代の世界。
電気という便利なエネルギーをコントロールできるようになって、暗黒の時間帯はなくなった。だから昼と夜の区切りもなくなった。例えば、今日のように夜から始まる仕事もたくさん存在する。

その反面、大昔の人のように星を見る、月を見る、夢を見る、自分の心をみる、眠るだけ、、、。の夜を持ち合わせなくなったのかもしれない。

それによって現代人は、大昔の人のように昼夜という時間のサイクルと太陽や月や星のサイクルと、自分の夢や心の深く結び合った関係を失っているのかもしれない。

やはり、人間は大きな宇宙のサイクルに深く深く結び合わさり、いや、むしろほんの小さな一部としての認識を持たなければ、本来の生命としての役目を果たさなくなるのではないかと考えた。

意外に、そんな昼と夜を深く味わえる生活作りが人間本来の幸せを見出せるのではないかと思った。

| スピリチュアル | 13:28 | - | - | ↑TOP
ポンペイ展 in Bunkamura
噛み砕くのに結構時間がかかった。
生活が忙しかったのもあるが、普段はあまり触れることのないカテゴリーでもあったからだ。

渋谷は家から近いので、渋谷のBunkamuraのイベントはコンテンツが変わっているのに気付いたら、極力足をはこぶようにしている。

そのコンテンツがポンペイ展だった。

西暦79年。約2000年前。
ヴェスビオ火山の爆発によってポンペイは滅びた。
約19時間の出来事であったと推察されている。

火山国でもある日本。
他国の出来事ではない気がする。
だが、僕には火山国に警鐘を鳴らす気もないし、そのような学術的な知識もない。ただ遺跡・遺品として残されたものをただ見るだけしかない。
遺跡・遺品を展覧することによって出来ることは自分の頭の中にイメージを生み出すことだった。

そう考えたら、古代遺跡の展示なんかとも同じかもしれない。
頭の中でドラマを創るようなものかもしれない。
僕が育ったところは田舎だった。
そしてそこには生活の場があり、その場所とは別に生活を終えた亡骸が眠る場所があった。まだその野山で遊んでいた小さい頃にその墓地の石に刻まれた名前や年月などを一生懸命読んだ記憶がある。
なんとも暗い遊びだろうか、、、。

あ、でも、そんなに暗くはない。
そこは松林で、町を見下ろせ、爽快な場所でもあった。
そして、そこから町を見下ろすことは、その墓石に刻まれた「記録」の人たちが住んでいた土地をも見下ろすことでもあった。
当時、子供も少ない地区で育ち一人遊びも多かった僕は、そんな空想や妄想や現実が混沌とした世界に住んでいたので、小さい頃の記憶があやふやでもある。が墓石の「之」をなんて読むのか分からなかったことが記憶に残っている。
無数の墓石の記録を子供の能力で見るのである。
数字と同じ文字(姓名だったり)、性別くらいの判断である。
でも、それが空想のゲームにもつながった。
早くにして漢字を読めたので、それも面白かったのだと思う。
例えば、
「これ同じ数字。」
「これ、数字が近い。」
「1年ちがいだ。」
「ここらへんは○△さんが集まってるけど、ポツンと向こうに○△さんがあった」など、、、。
今考えれば、子供ながらにその辺いったいの地域の家庭の経済状態とかお家の事情とかの記録を垣間見ていたのかもしれない。

そしてボーっと町を見下ろしながら空想してたわけだから、なんちゅうガキだ。。。とも思う。
しかし、あの頃は時の流れとか、大人の事情とかは理解してなかったので、TVのようなドラマはなかった。
「どこで魚釣りしてたのかなあ」とか「兄弟で病気になったのかなあ」とかそういった類であり、場所同じくして時を違えて、いろんな人が生きてそして亡くなっていったことは実感しなかったと思う。

そしてポンペイ展に足を運んだのだが、そこには享年などの記録はなかった。ただ、杯や貨幣や愛用品、しかも金属や石製のもの中心が残されているのみだった。そして亡骸(遺骨)であった。
もちろん本物の遺骨ではなく石膏などで再現されたものであった。
それらは、もっとその人を克明に残している気がした。
遺骨も、発見されたままの形で再現されているのだ。
繰り返すが、残っているのは金属や、石や、廃れた人骨である。

でも、そこに同じ人間の執着や愛やこだわりを感じるのである。
4体の人骨のブースがあり、その再現された小部屋には小さい2体の人骨を守るように2体の大きな人骨があった。

肉は廃れ骨も廃れ、男か女かも分からない。
大きいか小さいかの区別しかできないほどだ。
当時の肉体も骨も見れない。朽ち果てているからだ。
でも、心は見えた気がする。
もちろん物質としてではないが、見えた気がする。

心は火に炙られなかったのだろうか?
身体は火に炙られて、その活動や機能はなくなった。
しかし、今、見えたような気がする心はなんだったのだろうか?

心とは肉体や骨や熱や火とは別の次元に存在するものなのだろうか、、、?

そう思うと金属や石の愛用品からも、心が見えるような気がするのです。
心が残した物々から心を感じ、心のあり方をもう一度自問自答できる気がするのです。
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夏の空の下で
シェアメイトのあっちゃんと、「夏がきましたねぇ」とほくそえんだ。
今日は5月1日。
連休の合間に突如と来訪した夏日。
「北海道は、まだまだ寒い。今日は5月なのにストーブを焚いた。」お母さんから、そんなメールを受け取ったあっちゃんは少し優越感に浸りながら、「暑い」を連呼する。
なかなか、かわいい性格の持ち主だ。

そういえば、去年も12月に突如と夏日が訪れた。
そんなことを考えながら、乳母車を押す若いお母さんの白い透けぎみのノースリーブから出た2本の白い細腕と黒いつばの広い帽子を眺めながら、「毎月1日は映画の日」を観に行くために、あっちゃんと公園を沿いながらバスに乗った。

途中、あるスポットに差し掛かると、突然、あっちゃんが京都の話をし始めた。先日の別の集まりでもこのスポットで同じ京都の話を聞いた。どうやらこのスポットは、北海道にゆかりがある人は京都の話をしたくなるスポットらしい。
いや、ある特定の一族と京都と三宿と札幌が繫がっているのかもしれない。。。(ダビンチ・コードを読んだばかりで、陰謀説熱に冒され中。)

三宿に存在する「京都とつながるスポット」を発見しながらも僕らは映画に急いだ。

「Catch the Wave」
今年封切の日本のサーフィン映画だ。
少年達が海に出会って、出会う人達を通して、サーフィンというスポーツを通して直視していく話だった。
何を直視するのだろう。
簡単だ。
自分の気持ちである。
モテたい。という気持ちも、憧れや、信じる心、そして好きって感じることや怒りも。
それができるようになるのが大人になるということを竹中直人扮するデュークが教えてくれた。彼は一糸まとわぬ黒全裸で小さな漂流物である発泡スチロールを右手に登場した(おかげでサーフィン映画では、あまり目にしないモザイク加工の必要がなかった)。

少年達は不安感や不信感を覚えながらもデュークに対して、自分に対して心を開いていく。ここに海や出会う人々やサーフィンがあった。それらがあったから心が開けたし、自分の心の求めてることを直視したから開けたのだ。開けたから海や出会う人々やサーフィンが見えたのだとおもう。

竹中直人を久しぶりに見て気付いたことがあった。
世間の「チョイ悪オヤジ」、、、、。
なんか腑に落ちないところがあった。
なんか、かっこわるいような。。。心にグッとこない。。。

竹中直人を見て気付いた。
「チョイあほオヤジ」
これだ。。。
これしかない。。
これは、なかなかできない。自分の心を大事にしてて、見えてて、そしてそれを自分でもてあそぶ事ができる芸当。
だから廻りもまきこめる。
「チョイあほオヤジ」
百貨店では買えないツールだ。

「踊るあほうに見るあほう、同じあほうなら〜」
ですよね。やっぱり。
一回きりの人生ですものね。
人生を ナツナツナツナツ ココナツ♪ 状態にできる才能と、できずに(直視できずに)他人様の眼で自分の心を見てしまうまだ大人になっていない自分。を感じながらエンドロールを見送った。

明日からは、また肌寒い日に戻るというニュースを思い出しながら、心なしか温度の上がった映画館を出た。
| 映画 | 12:42 | - | - | ↑TOP
再会と千秋楽
考えてみれば幼稚園から一緒のはずだ。
高校まで同じ高校で。

ひょんなことから連絡が取れて彼から誘いがあった。

「オレらの演劇を見に来てくれ」

笑った。
イメージがつかないからだ。
ボクの知っている彼はサッカーが好きで、ワールドカップの話を一生懸命してる記憶がメインで、もちろん学校の風潮だが勉強も一生懸命してるイメージが大きかったからだ。

「え??? えんげき、、、とか、、してるの??」
という質問に彼は電話の向こうで、はにかみながら、、、
「ちょっと、いろいろあってね、、、やってみようかと。」
と、少しはずかしそうだが、まんざらでもない声色。

当然、ボクのSの気性に近い興味心をくすぐられ、阿佐ヶ谷の小さな劇場に向かい「蛇口の冠」という演目の受付へと向かった。

そこには本当にシンプルなステージと3人の役者と一手の役者がいた。
彼らは、本当は素人らしいのだ。
脚本・演出担当のツチヤさんという方が、演劇をやってみたいと思い、この役者達と数人の協力者をあつめて劇団「あがくれ」を作ったデビューの演劇だったのである。

そこには一生懸命があった。
素人の演劇だった。
しかし、そこには一生懸命があったのである。
「やってみたい!!!!」という自分の気持ちに素直な一生懸命。


ふと気付いた。

このメンバーはボクとさほど変わらない年代だ。
なのに一生懸命になれている。
一生懸命をやれている。

すごい。

ああ、彼を動かしたのは、この気持ちかもしれない、、。
(大学のつながりでムリヤリという説もあるが、、、。)

「やってみたい。」という気持ちだけで動いたことあるだろうか?
ちんけに後々ハクがつくからとか、キャリアの一部として、資格として、、、認められるから、、、、とか考えて動き始めるのとは、また別種の魅力がある動きをしてるだろうか?


人に認められなかったとき悔しい思いをしますか?
それとも自分の気持ちに素直に動けた。
そしてその達成感と疲労感をまた素直に受け入れる自分。
そんな自分がいる幸せにひたれていますか?

本当は、人に認められること、人の作った称号に自分が当てはまることだけが幸せではないのです。自分を幸せにできるのは、本当は、本当は、自分なんです。

言い換えれば、歯車としての動きと、原動力としての動き。
自分の生活は、どちらの達成感に重きを置いているだろうか?
歯車だとしても、原動力だとしても、自分が自分に他人抜きで素直に接する環境を作ってあげれてるだろうか?

そんなことをボクに思わせてくれる魅力あるメンバーだった。

不思議とそんなメンバーを見ると、ボクも何かを手伝いたくなる、、、。

元気が出るのです。

出演者のお母さんだろうか?
年配の女性が、真っ赤なバラの花束をステージへ。
でも、直接に手渡すのは恥ずかしいのか、客席に座っていた観客の女性に花束をゆだねて、その花束が他人の手から息子?へ、、、。


これまた素人っぽくていい!

すごくいい!!


これが素人演劇の千秋楽だ。


ボクは、魅力というのはそれぞれにあると思う。

プロの技、玄人の技もそれである。
しかし、こなれていない素人だから垣間見せる魅力。

これを逃さないためには、観る人にも求められる、



一生懸命。



かなり、大事だ。
演劇や踊りのような空間芸術、時間芸術は、刺し違えありの真剣勝負かもしれない。


だから求められる、一生懸命。


ちなみに今日、その幼馴染の彼に12年ぶりに再会したが、顔や体の見た目は、あまりにも変わってなくて、ふつうに、12年前のように、「じゃあ、連休中に飲もうぜ!」って軽く約束して別れた。


中身が頭が心が絶えず変遷していく人間は、そっちのほうが忙しくて、外見のオヤジ化とか老化(って、そこまでの年齢ではないのだろうけど!!)とか、そんなのが縁遠くなるんだろうな。
| 芸術(演劇) | 00:51 | - | - | ↑TOP
春ふりかけ
茶色地にピンクのふりかけ。
そして見上げると、桃緑。

一本の木を眺めると、それだけでも時間を費やしてしまう季節だ。

桜にはフェロモンがあるという。
桜が満開の時期、人間はその桜のフェロモンを楽しむ。
フェロモンとお酒も楽しむ。

そして、風が強くなり桜の花びらが一面を桃色にする。
その桃色が地面に落ちていく。
今度は土が桜を楽しんでいるのだろうか?

「桜の下には死体が埋まっている」
という話を聞いたことがある。詳細は知らない。

その地面の下に埋まっているであろう、元人間だった死体にも、桜を楽しんで欲しいという人間の優しさや心配りを感じてしまうほど、桜の花びらは私たちに喜びや優しさを与えてくれるようだ、、、。

桜は、私たち日本人にはいろいろな感慨を与えてくれる。
でも、実は桜が与えてるのではないのだ。
桜の色や形や花びらの繊細さ、そして風になびく枝や葉の音、甘い香り、そしてどこで感知するのか分からないけど確かに感じるフェロモン。

どれか一つを感じても心に花びらが映り、香りを感じ、そして楽しくも切ない気持ちを抱く。
人間のイメージって本当にすばらしい。想起力こそ生きることの醍醐味に感じる。そして、そんなイメージを抱く観念を私たちにインプットしてくれた日本の文化にも感謝である。

自然があって、人達がいて、文化があって、その中で生きている自分に幸せを感じた、一枚の花びらの話でした。
| 生活 | 01:01 | - | - | ↑TOP
目黒川
国道246号を渋谷へさかのぼる途中に目黒川へさしかかった。
去年の桜景色を想像しつつ、ふと目黒川へ目をやると、ちらちらと予兆が見えていた。というよりも、一分咲きというのだろうか?
ちょっぴり咲いていた。

先日の日曜にはまだ花は見当たらず、枝の先々が急激に赤くもっこり膨らんでいた。
しかし、この春分の日を境に早咲き組みが、そのふくらみから、ポンッと顔を出していた。

やっと、春が来た。

うっとうしい雨も、その雨が降って止む度に暖かくなることを考えると、心が弾む。

春のパワーを感じる。

決して、冬はパワーが廃れているというわけではないのだが、いろいろなどこかに蓄積していたパワーが空気中に、大気中に、生活している空間に放たれる感触を春になると得られるのだ。

残念ながら、いま生活している都会よりも、田舎の一面田んぼの地や、一面草むらの、林の、山の地のほうが大いに感じることができる。

生命力の大爆発なのだろうか?
ちょうどこの季節、まだ爆発するかしないかの頃。
うずくようなパワーを感じれる。

そのパワーを近所の目黒川で、小さなうずきで、、感じれた。
| 生活 | 20:24 | - | - | ↑TOP
風呂の中で。
生活の場は都会だ。
スポーツクラブに通っている。
海もないし、山もないので、真剣に体を動かすことがないからだ。
海で波乗りとかをすると、「あ、やばい。ダメかも。」という窮地におちいり、真剣に必死にもがくことがしょっちゅうある。
とにかく苦しい場面が、都会では少ないのだ。
ダイエットや健康にスポーツ!
という理的な理由ではなく、体に苦しさを味合わせとかなければという変な理由でスポーツクラブに通っているのだ。
危険はないのだが。。。

話は変わるが、今日はスポーツクラブで長風呂だった。
風呂に浸かりながら頭の中に浮かんだのは、以前に訪れた那須塩原の野天風呂だった。

小さな川を挟んで大きくそびえ立つ谷の中腹に、その野天風呂が存在していた。川の水の音を聞き、頭上からは木々の葉や枝の重なり合う音がこだましている。そして紅葉がかった木々の葉におおわれた野天風呂でゆったりと温まるのだ。

やっぱちがう。

ボイラーのお湯と自然のお湯はやっぱりちがう。
湯温が同じなら一緒なんだろうか?
成分が一緒なら同じなんだろうか?

地球の動脈や静脈のようなマグマ。
地球が宇宙の一部で、そして地球として活動している証拠だ。
そのマグマが地底を温め、その地底を通る水脈を温める。
そしてその水脈が泉となって地表に出る。
その泉を人間が温泉として楽しむのだ。
すごく幸せな気持ちだ。
幸せを生み出す。

このなんでもなく人間が自然の一部になることで、面白い図式が頭に浮かび上がった。

宇宙の活動

地球も宇宙に連動して活動する

地球のマグマも連動して活動する

活動の一部がマグマの熱となる

マグマの熱が地底を温める

地底を通る水脈の水に熱が伝播する

その熱を帯びた水に人間が浸かる

人間の体が温まる

人間の心も温まる

幸せな気持ち

ふと思いついた図式だった。けど、可笑しかった。
| 生活 | 11:22 | - | - | ↑TOP
舞台はMIYAZAKI
少し調べ物をしていたら目に留まった。

1970年、大阪にて日本万国博覧会(EXPO'70)が開幕。この史上最高の大イベントに日本中が大騒ぎしている頃のこと。舞台は九州・宮崎県、海と山に囲まれた静かな田舎町。この町のある家では、突然の母の死で残された家族たちが右往左往していた。それはこの平穏な町におとずれた、ちょっとした事件だったのだ――。

下北沢の劇場で催される演劇「エキスポ」の紹介文だ。
最近、九州でも宮崎とか大分とかが舞台になるドラマや映画をよく目にする。
といっても、1970年の大阪万博のときの宮崎とか、、、何か世の中に大きく影響を与えているような事件やニュースがあったのだろうかと思って詳細を読み進めた。

どうやら、宮崎を舞台にしたウリは、いつの時代も、何があってものんびりとマイペースで自分なりの一生懸命で生きていく場所ということらしい。

ああ、たしかにそういうとこだ。
旅行行って、宮崎の人と仲良くなったら笑えますよ。
まず、音程やメロディから笑えます。
感覚がMIYAZAKIなんでしょうね。
馴れてる僕でも笑えます。

だから、この舞台は面白いと思います。
開催が楽しみです。
http://homepage2.nifty.com/katoken/62-index.htm
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| 芸術(演劇) | 09:47 | - | - | ↑TOP

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